吉田町

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Yoshidamachi

海を埋め立てて田を拓いた人の名を、いまも名乗る町。
開港のころは関門の外側にあり、明治には日本で最初の鉄の橋のたもとに栄え、何度も火に焼かれては、建て直されてきました。
伊勢佐木町と野毛のあいだ、250メートルほどの通りに、夜ごとバーの灯りがともります。

入り海の新田からYoshida Shinden

吉田新田吉田勘兵衛関外町名の由来

江戸のはじめ、いまの伊勢佐木町や関外のあたりは、大岡川の河口に広がる入り海でした。

そこを埋め立てたのが、江戸の材木・石材商、吉田勘兵衛です。8年の歳月をかけた工事は、1667(寛文7)年に完成し、2年後に「吉田新田」と名づけられました。大岡川と中村川、いまのJR線に囲まれた、釣鐘のような形の土地です。横浜市中央図書館は、この新田が、となりの関内とともに横浜の中心をかたちづくったと書いています。

新田とはいっても、開港のころまでは田と畑、そして沼地の多い土地でした。明治の直前でも「沼のような田のような」ところが多かったといいます。新田の寺の住職は、満潮になると墓地が水に浸かり、墓参りもできなかった、と語り残しています。吉田家代々の墓碑はいちばん大きかったので、潮が満ちても、頭だけはよく見えていた、と(『中区史』)。

1859(安政6)年に港が開くと、横浜道が整えられ、新田の堤に沿って町並みができていきます。1864(元治元)年、田畑はすべて埋め立てられ、吉田町が生まれました。町の名は、新田を拓いた吉田勘兵衛にちなみます(横浜市中区)。

関所の外へ 吉田橋と「かねの橋」Yoshidabashi

吉田橋吉田橋関門跡かねの橋関内・関外

吉田町から歩いてすぐのところに、吉田橋があります。

開港の年に渡り始めが行われたこの橋は、開港場へ陸から入る道の入口でした。翌1860(万延元)年、外国人を守るために関門が置かれ、1864年には、その関門と番所が吉田町の側へ移されます(『中区歴史年表』)。関門の内側が「関内」、外側が「関外」。吉田町は、関門のすぐ外に生まれた町でした。

通り抜けは厳しく調べられました。夜、友達と寄席へ行くのに、関門を通るのが何より心配だった。そう語り残した女性がいます。日が暮れると大きな門は閉じられて脇の門だけになり、夜の四つ(午後10時ごろ)を過ぎると、すべてが閉ざされた、という回想もあります(『中区史』)。

1869(明治2)年、吉田橋は、イギリス人技師ブラントンの設計で鉄の橋に架け替えられました。日本で最初の鉄の橋です。人々はこれを「かねの橋」と呼びました。馬車道と吉田橋によって、関内と吉田新田は一本の道で結ばれ、橋を渡った人の流れは、いまの伊勢佐木町通りへと続いていきます。そのころ、橋の近くの川岸には、桜が植えられたといいます。

かねの橋は40年あまり使われ、1910(明治43)年に鉄筋コンクリートの橋に改められました。いまの吉田橋は、馬車道と伊勢佐木町のあいだで、首都高速道路の掘割に架かっています。1985年の区の歴史は、高速道路の建設にあわせて架け替えられた橋が、かねの橋の姿を残すために橋脚のない形をとったこと、たもとに開港百年を記念した「吉田橋関門跡」の碑が残ることを書いています。

火の町Meiji to 1945

明治のはじめ、関内に近い吉田町には、早くから家が建てこみました。

1870(明治3)年3月、野毛と吉田町で大火があり、250戸が焼けます(『中区歴史年表』)。同じ年、神奈川県は、吉田町や野毛町はこれから栄えていくが、火の用心が大切だとして、板ぶきの屋根を三年のうちに瓦に替えるよう命じました。

開港後は暮らしの品を、明治からは古着を商う店が集まった、と町の商店街会は紹介しています。町には銀行が建ち、都橋のわきには、開港のころから横浜の町づくりを担ってきた清水組(いまの清水建設)が本拠を構えていました。

1923(大正12)年の関東大震災で、吉田町は焼けました。三階建ての清水組の建物も、銀行も焼け落ちます。立ち直った町は、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で、ふたたび炎に包まれました。区の歴史は、関外は「まさに全滅した」と書いています。

片側の町After the War

終戦ののち、焼け跡に戻ってきた人たちは、焼けたトタンと燃え残りの材木で小屋を建てはじめました。けれど関外のほぼ全域は、米軍に接収されます。吉田町も例外ではありませんでした。町は通りの片側を失い、「片側町」になりました(『中区史』)。

それでも、町は止まりませんでした。戦後まもなく、町内会長の尽力と、地元の清水組の手で、商店街がほぼ形になり、復興祭が開かれます。1948(昭和23)年には、お三の宮(日枝神社)の祭りが復活し、吉田町からも神輿が出ました。同じ年の夏、吉田橋から都橋までの川から沈んだ船やごみが引き上げられ、川端には戦前のように、桜や柳が植えられています。

1950年の『月刊よこはま』は、吉田町のようすを、こう伝えています。

「現在、七九戸しかありませんが、皆が一致協力して街をよくしようという意気に燃えています」(『中区史』所収)。

お三の宮の9月の例祭では、いまも吉田町の町内神輿が通りを巡ります。

燃えない通り 防火帯建築Fireproof Belt

防火帯建築吉田町名店街吉田町本通り戦後建築

吉田町の通りを歩くと、3階や4階建ての、どこか似た表情のビルが続いていることに気づきます。1階が店、上の階が住まい。戦後の復興期に建てられた「防火帯建築」です。

焼け野原から立ち上がる日本の町で、燃えない建物を帯のように連ねて、火が広がるのを食い止めようとする考えがありました。横浜では、そうした鉄筋コンクリートの店舗と住まいの建物が、約400棟建てられ、いまもその半数ほどが残っているといわれます。

1985年の区の歴史は、吉田町の共同ビルについて、3階から上がアパートになっていること、この町のビル建設のさきがけだったことを記しています。横浜市は2026年、吉田町を「1950年代の戦後復興期に整備された防火帯建築が連なる特徴的な街並み」と紹介しました。

吉田町では1987年、町の人たちが街づくりの協定を結んでいます。横浜市の指針は、この町を「伊勢佐木町と野毛に挟まれた開港以来の伝統のある街」と呼び、アートとジャズを町の特色に挙げています。

Our View

私たちの見方 燃えない通りに、灯りがともる

大火に焼かれ、震災に焼かれ、空襲に焼かれた町です。明治の県の布達から戦後の防火帯建築まで、この町の建物の歴史は、火とどう向き合うかの歴史でもありました。

そうして建てられた燃えない建物の1階に、いまはバーの灯りがともっています。古いものは、ただ残っているのではありません。毎晩、誰かが扉を開け、灯りを入れることで、生きた町並みであり続けています。

※この枠は、Yokohama Open実行委員会の考えです。

画廊とジャズ、バーの町Art, Jazz & Bars

神奈川県観光協会は、吉田町を、昼は画廊や写真展などアートの店が並び、夜は40軒を超えるバーやカフェが開く町と紹介しています。商店街会の言葉では、「アートや音楽・カクテルの町」。全長250メートルほどの小さな商店街に、70軒を超える飲食店が並び、老舗と若い店主の店が混ざりあっています(2022年)。

2000年、町の人たちは、通りを歩行者天国にして「吉田町アート&JAZZフェスティバル」を始めました。路上に絵や写真、手仕事の品が並び、ジャズの生演奏が響く祭りは、2018年に19回目を数えています(ヨコハマ経済新聞)。

2010年ごろからは、通りを丸ごとビアガーデンにする「吉田まちじゅうビアガーデン」が、春から秋にかけて開かれています。2011年8月には、東日本大震災の鎮魂と復興を願って、通りにやぐらを組んだ盆踊りが企画されました。いまは30を超える店が一体となる町の行事になり、ジビエや防災をテーマにした催しにも広がっています。

2026年、吉田町名店街会は、戦後の防火帯建築の町並みを生かし、若い店主たちが中心になって町をにぎわせてきたとして、国土交通省の「まちづくりアワード」を受けました(横浜市)。

ノラねこ通りNoraneko-dori

ノラねこ通り裏吉田町吉田町 バー福富町西公園

吉田町本通りの一本裏に、小さな路地があります。都橋の側、福富町西公園の横に入口があり、ネオンのアーチ看板が掛かっています。

かつて「おいしんぼ横丁」と呼ばれたこの路地は、2018年8月、「ノラねこ通り」と名づけられました。商店街の人たちから名前を募り、集まった30の案から投票で選ばれました。個性の強い店主が多いこと、そして実際に野良猫が暮らしていることから、この名になったといいます。看板は、女子美術大学の学生がデザインしました(神奈川新聞、2018年)。

隠れ家のようなバー、こだわりの小さな料理店。チェーン店ではない、ひとりひとりの店主の店が、夜になると扉を開けます。

Our Suggestion

関門の跡から、都橋まで。

夕方、馬車道の側から吉田橋を渡ってみてください。たもとの「吉田橋関門跡」で、ここがかつて関内と関外の境だったことを思い出してから、吉田町の通りへ。

通りの両側に続く建物の、2階や3階の窓を見上げてみてください。焼け跡から立ち上がった人たちの建てた、燃えない町並みです。通りの端、都橋の手前で、ノラねこ通りへ折れてひと回り。そして都橋を渡れば、野毛です。

※歩き方は実行委員会からのご提案です。

Our Suggestion

一杯を、静かに。

吉田町のバーの多くは、カウンターの小さな店です。初めての店では、まず一杯。店の決まりがあれば、それに従い、写真は店の人に断ってから。混んできたら、長居をせずに次の店へ。

この町の建物の上の階には、暮らしがあります。夜更けに店を出たら、通りでは声を少し落としてください。ノラねこ通りで猫に出会っても、追いかけたり、食べ物を与えたりせず、そっと見送ってください。

※実行委員会からのお願いとご提案です。お酒は二十歳になってから。

撞くPlay

吉田町から歩いてすぐの関内・伊勢佐木町に、ビリヤード場が集まっています。関内・伊勢佐木町のページへ →

食べる・飲むEat & Drink

大会協賛 横浜ビール 本店レストラン(UMAYA/YOKOHAMA BEER STAND)

横浜市内で最も長い歴史を持つ地ビール会社の本店。2階がレストラン「UMAYA」、1階が醸造所を併設したビアスタンドです。「アルト」は World Beer Cup 2024 のジャーマンスタイル・アルトビア部門で銀賞を受けています。中区住吉町、JR桜木町駅・みなとみらい線馬車道駅から徒歩5分。はしご酒の一軒目にも。

公式サイト

泊まるStay

横浜市観光協会の公式サイトでは、関内・馬車道・伊勢佐木町のエリアで宿を絞り込めます。BASEGATE横浜関内には、旧市庁舎の建物を生かしたホテル「OMO7横浜 by 星野リゾート」もあります。

となりのエリアNearby

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出典(確認日:2026年10月4日)

数字は出典の時点のものです。催しの日程、店の数、営業時間などは変わることがあります。お出かけの前に、各公式サイトでお確かめください。