波のない日には、波のない日の楽しみがある。——ビリヤード場という居場所。

朝から、海は凪いでいた。

それでも、ボードにまたがって沖へ出た。

波はない。
ただ、海が揺れている。

ボードごと、ゆっくりと上下する。
潮の香りが、鼻をくすぐる。
水平線が、白い空と溶け合っている。

波が来なくても、構わなかった。
ただ、この揺らめきの中にいたかった。

自然の一部になる、この感覚。
それだけで、来た甲斐があった。

「波がない日ぐらい家でゆっくりすればいいのに」

誰かにそう言われたことがある。
でも、この時間が嫌いじゃなかった。


同じ頃、横浜の路地裏にも、静かな午後が流れていた。

平日の午後、店内は静かだった。
照明が、テーブルの上だけを照らしていた。
他に客は二人だけ。
それぞれが、自分の球と向き合っていた。

キューを選んで、台の前に立つ。

球を並べながら、特に何も考えていなかった。
波のない日に海へ行くのと同じで、ただ、ここに来たかっただけだった。


夕方になって、友人が浜に現れた。

「波ないじゃん」

「ない」

「帰る?」

「いや、もう少し」

二人でボードに腰を下ろして、海を眺めた。
言葉は少なかった。
でも、それで十分だった。

夕陽が、水平線に近づいていく。
空がオレンジに染まり始め、海面が揺れて光を散らした。
潮が満ちてきて、波が少しだけ立ち始めた。


友人から連絡が来た。

「今どこ?」

「ビリヤード場」

「俺も行く」

しばらくして、扉が開いた。 テーブルを見渡した。

「久しぶりだな」

「ああ」

他愛もない話をしながら、球を撞いた。
外れて、笑った。
入って、またくだらない話を続けた。

球がポケットに吸い込まれる音が、静かな店内に響いた。


帰り道、海を振り返った。

結局、波は来なかった。
でも、悪い一日じゃなかった。

潮の香りが、まだ服に残っていた。


二人は、閉店近くまで撞いた。

勝ち負けは、どうでもよかった。

「また来ようぜ」

「ああ」

キューを返して、扉を開けると、夜風が頬に触れた。

チョークの粉が、まだ指先に残っていた。


波のない浜で、一人が空を見上げていた。

ビリヤード場の路地では、二人が夜風の中へ出ていく。

波は来なかった。
大きな出来事もなかった。

それでも、悪い一日じゃなかった。

その日の自分を、そのまま過ごせる場所がある。

それだけで、十分だった。

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