プロローグ
気がついたら、白かった。
いや、待ってくれ。
順を追って話す。
俺の名前は玉野想(たまのそう)。
22歳からビリヤードにハマり、早8年。
毎日のように撞き続けたのに万年B級という、努力が報われない系男子30歳だ。
そして——童貞だった。
30歳の誕生日、友人に「お前そろそろ魔法使いになるんじゃね」とイジられながら迎えた深夜0時。
なるほど、確かに何かが起きた。
ただし、魔法使いにはなれなかった。
気づいたら俺は、ビリヤードテーブルの上に転がっていた。丸く、白く、直径57.2mmで。
手球になっていた。
「は?」
声は出なかった。
当たり前だ。
俺は球だ。
第一章:初めての「接触」
テーブルの上から見える景色は、8年間見続けてきた景色と同じようで、全然違った。
ラシャの緑がやけに鮮明で、照明の光が眩しい。
そして何より——デカい。
人間の目線から見るビリヤードテーブルと、球の目線から見るビリヤードテーブルでは、スケール感が全く違う。
「こんなに広かったのか、このテーブル……」
呆然としていると、遠くからキューが迫ってきた。
ドゴッ。
衝撃が来た。
俺——いや、手球の俺は、弾き飛ばされた。
凄まじいスピードで転がり、前方にいた赤い的球に突っ込んでいく。
そして。
ぶつかった瞬間、俺は知った。
第二章:分離角の真実
接触の瞬間、俺の体(球体)に何が起きたか。
的球との接触——それは理論上、ほんの一点だった。(厳密には衝突の瞬間にごくわずかな変形が生じるが、そんな話を今する必要はない。
俺は今、球だ。)
その一点から、力が伝わった。
そしてその瞬間、俺は進行方向を失い、ある角度へと弾き出された。
「なんだこれ……なんで俺、こっちに飛んでるんだ?」
混乱する俺の頭の中に、突然8年分のビリヤード知識が流れ込んできた。
そうか。
これが分離角だ。
手球が的球に角度をつけて当たった時、手球と的球は約90度に分かれて進む。これを「分離角」という。
「知識としては知ってた。でも体で感じるのは全然違う……」
第三章:おじさんに撞かれた日
しばらくテーブルの端で放心していると、でっぷりとしたお腹が視界に入ってきた。
常連のおじさんだ。
たぶん60代。
ブリッジを組む手が雑で、キューが若干上を向いている。
「あ、まずい——」
ドガッ。
容赦なかった。
全厚のフルヒットだった。
俺のエネルギーのほぼ全てが的球に叩き込まれ、俺自身はその場に残された。
的球はもの凄い勢いで飛んでいき、ポケットに吸い込まれた。
「……入った。入ったけど。俺、全然動いてないじゃないか」
全厚のフルヒットの場合、手球はほぼその場に止まる。
エネルギーが全部的球に移るからだ。
おじさんは「よっしゃ」と言いながら次の球を狙い始めた。
俺のことなど眼中にない。
「扱いが雑すぎる……」
第四章:お姉さんに撞かれた日
次のゲームで、雰囲気が変わった。
キューを持って台に近づいてきたのは、20代くらいのお姉さんだった。
タイトパンツがよく似合っている。
ブリッジを丁寧に組み、キューを水平に構え、ゆっくりと呼吸を整えている。
「あ、この人、ちゃんと撞ける人だ」
俺の体験上——いや、B級プレイヤー時代の記憶として——こういう人のショットは違う。
スッ……
静かな衝撃だった。
薄く、繊細に。
的球のほんの端をかすめるように。
的球に奪われたエネルギーはほんの少しで、的球はゆっくりと転がっていった。
そして俺は——的球の向かう方向とほぼ90度に、自分のスピードはほとんど落とさずに走り続けた。
「これが……薄いカットか」
薄いカットの場合、俺のエネルギーはほぼ俺自身が持ち続ける。
的球に奪われるのはわずかだけ。
でも分離角は同じ約90度。
エネルギーの配分が変わるだけで、分かれる角度の法則は変わらない。
お姉さんは俺の行き先を計算していた。
次の球への理想的なポジションに、俺を送り込むために。
「……俺、今、道具として完璧に使われた」
なんだろう。
悔しいような、でもちょっと嬉しいような。
第五章:どこに当たるかで、俺の運命が変わる
おじさんとお姉さんの二つの体験で、俺は一つの真実を理解した。
まず、全厚のフルヒットの場合——真正面からぶつかった時は話が別だ。
俺のエネルギーのほぼ全てが的球に移り、俺はその場に止まる。
的球は俺が向かった方向にそのまま真っ直ぐ飛んでいく。
この場合、「分かれる」という概念すら成立しない。
分離角約90度の法則が成立するのは、角度のある当たり方をした時だけだ。
薄いカット、ハーフボール——つまり俺が的球に対して角度をつけてぶつかった時、初めてこの法則が生きてくる。
角度のある当たり方をした場合、手球と的球は常に約90度に分かれる。
これは物理法則として決まっている。
ではその「約90度」の中で何が変わるのか。
答えはエネルギーの配分だ。
薄いカット(お姉さんスタイル)——的球に奪われるエネルギーはわずかで、俺はほぼ元の勢いで走り続ける。
的球はゆっくり進む。
厚み1/2のハーフボール(その中間)——俺と的球の中心を結ぶセンターラインの角度が約30度になる。
「一見、半分ずつだから45度ずつに分かれそうだよな……」
でも違う。
的球はセンターラインの方向、つまり約30度の方向へ進む。
そして俺は的球の進行方向に対して90度——つまり約60度の方向へ走り出す。
「接触点から見た直感と、実際の物理は違う。厚みが半分でも、角度は半分にならない。」
……待って、なんで俺こんな細かいこと知ってるんだ。
8年間B級だったのに。
転生すると妙に物理に詳しくなるらしい。
困ったもんだ。
「つまり……角度をつけてぶつかった時は必ず約90度に分かれる。フルヒットは別の話。そしてどれだけの勢いで俺が飛ぶかは、どこに当たったか(=俺と的球の中心を結ぶセンターラインの角度)で決まる」
そう。
B級時代の俺は、的球を入れることしか考えていなかった。
でも本当は、的球を入れた後の自分(手球)がどこに行くかが、ビリヤードの本質なのだ。
「8年間、何を見ていたんだ俺は……」
テーブルの端で静かに止まりながら、俺は悟った。
的球を沈めることは、ゴールではない。
次の球への出発点なのだと。
おじさんはポケットに入れることを考え、お姉さんは入れた後の俺の行き先を考えていた。
その差が、ビリヤードの深さだった。
エピローグ
俺はしばらく、テーブルの隅で転がされ続けた。
B級歴8年。
毎日撞いてきたはずなのに、手球になって初めて知ったことがある。
俺はずっと、的球しか見ていなかった。
次のショット、次の配置、手球の行方——そういうものを「知識」として知ってはいたが、「感覚」として持っていなかった。
いつかまた人間に戻れたとして(戻れるのか?)、その時の俺のビリヤードは、きっと変わっているだろう。
……まあ、まずは戻れるかどうかの問題だが。
気づけば、ビリヤード場の閉店時間が近づいていた。
照明が落ちていく。
一人、また一人と客が帰っていく。
おじさんも帰った。
お姉さんも帰った。
テーブルの上に残されたのは、俺だけだ。
「……30歳にして手球に転生。童貞のまま。B級のまま。」
暗くなったビリヤード場で、俺はただ——止まっていた。
誰も撞いてくれない。
俺は、自分では動けない。
キューがなければ、誰かがいなければ、俺はどこにも行けない存在なのだ。
広いテーブルの真ん中で、俺はそのことを静かに噛み締めた。
手球とは、外部のエネルギーがあって初めて動ける存在だ。
……それって、なんか、もともとの俺みたいだな。
——俺の物語は、続くのか。続かないのか。
それは、皆さんの反応次第……かもしれない。
次回予告(もしあれば):俺の体に、回転が加えられた。上、下、右、左——それぞれの回転が、俺の軌道をどう変えるのか。
手球・玉野想の転生生活は続く……かもしれない。
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