まだ誰にも知られていなかった夜。

1972年、京都のライブハウス。

客は数えるほどしかいなかった。
照明は暗く、煙草の煙が漂っていた。
誰も彼らの名前を知らなかった。

それでも西村入道は、腹の底から叫んでいた。

シャウトが、狭い箱に響いた。
服田洋一郎のボトルネックが弦を滑り、泥臭い音が空気を引き裂いた。

誰かに認められるためじゃなかった。
売れたいわけでもなかった。
ただ、これが本物だと思っていたから。

誰も興味を持たなかった時代に

当時の日本で、ブルースはアングラだった。

歌謡曲的なムード、ロックのギミック——そういう形で消費される「ブルース」が大半だった。

本物のシカゴ・ブルース、泥臭く生々しいエレクトリックの響きを、そのままの熱量でステージに持ち込もうとするバンドは、ほとんどいなかった。

メディアは取り上げなかった。
スポンサーもいなかった。
大きな会場に呼ばれることも、最初はなかった。

それでも彼らは続けた。

ごまかさず。
妥協せず。
様式美を、誰も見ていない暗闇の中で磨き続けた。

本物は、孤独の中で育つ

服田のスライドギターは、当時の日本では異質だった。

エリック・クラプトンに影響を受けたロック寄りのギタリストが大半の中で、彼はエルモア・ジェームスやマディ・ウォーターズの流れを汲む、ボトルネックを使った泥臭い奏法を貫いた。

西村入道のボーカルも同じだった。

フォーク調へ寄せなかった。
当時の流行に合わせようとはしなかった。
黒人ブルースマンのシャウト、粘り気、腹の底から絞り出す声量——それを自分の身体で再現しようとした。

日本語や日本人の骨格でどうブルースを歌うか。
その問いに、一切妥協せず向き合い続けた。

誰も評価しなくても。
誰も知らなくても。

1974年、フェスのステージに立った

郡山ワンステップ・フェスティバル。

日本初の大型ロックフェスのステージに、ブルースハウス・ブルース・バンドは立った。

アングラだったブルースが、最先端の日本のロックと同じ舞台に立った瞬間だった。

暗いライブハウスの隅で磨き続けたものが、大きな光の下に出た。

その秋、彼らはあっさりと解散した。

わずか2年だった。

でもその2年がなければ、近藤房之助も、ブレイクダウンも、今とは少し違う形になっていたのかもしれない。
日本のブルースの景色も、また別のものになっていた気がする。

種は、誰も見ていないところで蒔かれる。

ビリヤードも、まだ暗闇の中にいる

ビリヤードは、まだ暗闇の中にいる。

世間のスポットライトは、まだ届いていない。
メディアが大きく取り上げることも、まだない。
テーブルの前で何が起きているか、多くの人はまだ知らない。

でも確かに、そこに本物がある。

一球に注ぎ込まれた思考がある。
年単位で積み重ねられた技術がある。
言葉にならない緊張の中で、それでもキューを出し続けてきた選手たちがいる。

まだ多くの人に知られないまま、それでも続けてきた。

叫びは、形を変える

西村入道のシャウトは、怒りではなかった。
叫びは、最も純粋な形の表現だった。

本物を届けたい。
この音を、誰かに聴かせたい。
それだけだった。

ビリヤードを多くの人に届けたいという想いも、静かな形をしている。

でも静かであることと、諦めていることは違う。

テーブルを整え、記録を残し、数字を積み上げ、言葉を紡ぐ。
一球ずつ、一試合ずつ、一記事ずつ。

アングラをオーバーグラウンドへ押し上げるのに、華やかな手段は要らない。
本物を、本物のまま届け続けること。 景色は、たぶんそこからしか変わらない。

暗いライブハウスで叫んでいたあの夜が、日本のブルースを作った。

今はまだ、テーブルの上に小さな灯りしかない。

それでも。

誰も見ていない場所で積み上げられたものが、 いつか景色を変える。

あの夜のブルースが、そうだったように。

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👉 数字は、感動を減らすものではない。

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