山手町

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Yamate (The Bluff)

港の南に立ちあがる崖を、海を渡ってきた人たちは「BLUFF」と呼びました。
丘の上に家を建て、学校と教会を開き、海の見える場所に、仲間を葬った人たち。
震災ですべてを失ったあとも、丘はもう一度、暮らしの場所に戻っていきました。その時間を、坂をのぼって訪ねます。

崖と呼ばれた丘The Bluff

開港のころの山手は、原野とも山林ともつかない丘で、ところどころに畑があっただろう、と区の歴史は書いています。古くは久良岐郡北方村。港の側から見上げると、切り立った崖でした。横浜に暮らす外国人たちは、この丘を、崖を意味する英語で「BLUFF(ぶらふ)」と呼びます(横浜市中区)。

1866(慶応2)年の暮れ、幕府と各国のあいだで「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が結ばれ、山手の土地を外国人に貸すことが決まりました。翌年から土地の貸し出しが始まり、丘の上に、少しずつ家が建っていきます。1884(明治17)年には、居留地のなかに、谷戸坂、汐汲坂、地蔵坂、山手本町通など26の町の名が付けられました。1899(明治32)年、居留地の制度がなくなると、26の町はひとつにまとめられ、「山手町」になります(横浜市中区「中区の町名とその歩み」)。

丘のいちばん眺めのよいところには、幕末からイギリスとフランスの兵が駐屯していました。兵舎が引き払われたのは、1875(明治8)年のことです(『中区史』)。

大正のはじめまで、山手は静かな住宅地でした。隣の家まではずいぶん歩き、昼間はしんとして、通りで見かけるのは子守りをする「アマさん」くらいだった。森の中を歩いているようだった。区の歴史は、丘に住んでいた人たちのそんな言葉を書き残しています。

女子教育と、教会の丘Schools & Churches

明治のはじめ、丘には学校と教会が次々と開かれていきます。1871(明治4)年、3人の女性宣教師が山手48番に「ミッション・ホーム」を建て、翌年、日本の女性のための英学校が開かれました。のちの共立女学校です。1875(明治8)年には、ヘボン夫人が始めた女子のための塾が山手178番に校舎を建てて移ってきます。のちのフェリス女学院です。区の歴史は、日本の女子教育はこの山手の地に生まれた、とさえいえる、と書いています(『中区史』)。

同じころ、宣教師たちの手で、いくつもの教会が建てられました。外国の考え方が、外国人自らの手によって、この丘に根を下ろしていった時代でした。

いま丘の上で目にする二つの聖堂は、どちらも震災のあとに建て直されたものです。横浜山手聖公会の聖堂は1931(昭和6)年、カトリック山手教会の聖堂は1933(昭和8)年の建築。どちらも横浜市の歴史的建造物に認定されています。

1870(明治3)年、丘のはずれには、居留する外国人の手で山手公園が開かれました。日本で最初の西洋式の公園です。日本の近代テニスはここで始まり、ヒマラヤスギも、ここで日本に初めて植えられて全国に広まりました。80年のあいだ外国人だけの公園でしたが、戦後は、横浜の人たちが体を動かし、憩う場所になっています(横浜市)。

1923年9月1日The Great Kanto Earthquake

関東大震災は、丘の上の家々も、学校も、教会も、容赦なく倒し、焼きました。山手本通りに沿って残った建物は、わずか三、四軒。あとには、石造りの残骸が続く荒れた丘があった、と区の歴史は記しています。焼けた建物のなかには、各国の領事館、病院、ホテル、劇場のゲーテ座、フェリスや共立をはじめとする学校、そして教会がありました(『中区史』)。

亡くなったのは、外国人ばかりではありません。外国人の家で働いていた日本人のコックやボーイ、アマ、庭の職人たちも、多く命を落としました。焼け残った山手公園には、家を失った人たちが身を寄せます(同)。

外国人の多くは、関西や上海へ移っていきました。山手の復興は、町をあげてのものではなく、一軒ずつ、ゆっくりと進んだといいます。1929(昭和4)年にフェリスの新しい校舎が建ち、少しずつ、丘に家が戻ってきました(同)。

いま山手で公開されている西洋館は、そのほとんどが、この復興の時代に建てられたものです。横浜を離れた外国人に戻ってきてもらうために建てられたと考えられている共同住宅もあり、倒壊と火災を免れた家の部材を使って建てられた家もあります。西洋館の白い壁と窓は、震災のあとに、もう一度ここで暮らそうとした人たちの姿でもあります。

横浜山手西洋館Western Houses

横浜市が所有し、横浜市緑の協会が公開している西洋館は7館。どれも入館無料です。7館すべてを見るなら2〜3時間ほど、2〜3館ずつなら30分〜1時間ほどが目安です(横浜山手西洋館)。丘の東、港の見える丘公園から、西のイタリア山庭園へ、並んでいる順にご紹介します。

  • 横浜市イギリス館:1937(昭和12)年、英国総領事の公邸として、上海の大英工部総署の設計で建てられました。東アジアの領事公邸のなかでも上位に格付けられた、鉄筋コンクリート2階建て。1969年に横浜市が取得し、2階の展示室と、復元された寝室を公開しています。
  • 山手111番館:1926(大正15)年、アメリカ人ラフィン氏の住宅として建てられました。設計は、1920年に来日し、横浜に多くの作品を残したJ.H.モーガン。赤い瓦屋根に白い壁、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす家で、1999年から公開されています。
  • 山手234番館:1929(昭和4)年ごろ、外国人のための共同住宅として建てられました。震災の復興期に、横浜を離れた外国人に戻ってもらうためだったと考えられています。四つの同じ形の住まいが向かい合う、簡素で合理的なつくり。戦後の接収を経て、昭和50年代ごろまでアパートとして使われていました。
  • エリスマン邸:生糸を扱う商社の横浜の支配人格だった、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏の家。1925〜26年、「近代建築の父」といわれるチェコ出身の建築家アントニン・レーモンドの設計で建てられました。1982年に解体されましたが、1990年、元町公園の中、旧山手居留地81番地に再現されています。
  • ベーリック・ホール:イギリス人の貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、1930(昭和5)年に設計されました。設計は山手111番館と同じJ.H.モーガン。戦後は遺族からカトリック・マリア会に寄贈され、2000年まで、インターナショナル・スクールの寄宿舎として使われていました。2002年から公開されています。
  • 外交官の家:ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使を務めた外交官、内田定槌の邸宅として、1910(明治43)年に東京・渋谷の南平台に建てられました。設計は、立教学校の教師として来日したJ.M.ガーディナー。1997年、孫にあたる方から横浜市に寄贈されて山手イタリア山庭園に移され、同じ年、国の重要文化財に指定されました。
  • ブラフ18番館:震災のあと、山手町45番地に建てられた、オーストラリアの貿易商バウデン氏の家。戦後はカトリック山手教会の司祭館として1991年まで使われ、山手イタリア山庭園に移されました。解体の調査で、震災の倒壊と火災を免れた家の一部が、部材として使われていたことがわかっています。館内には、当時元町でつくられていた横浜家具が、修復して置かれています。
  • 開館時間:9:30〜17:00。入館無料(横浜市イギリス館のほかは、スリッパに履き替えて見学します)。
  • 休館日:山手111番館・エリスマン邸・ベーリック・ホール・ブラフ18番館は毎月第2水曜日、横浜市イギリス館・山手234番館・外交官の家は毎月第4水曜日(休日の場合は翌日)。全館、年末年始(12月29日〜1月3日)。工事などで臨時に休館することがあります。

山手には、このほかにも、1909(明治42)年に建てられた和洋折衷の木造の家を移した「山手資料館」など、横浜市の歴史的建造物に認定された建物が点在しています。そのなかには、いまも人が暮らす家もあります。

海の見える墓地Yokohama Foreign General Cemetery

横浜外国人墓地山手 外人墓地募金公開

1854年、2度目に来航したペリーの艦隊で、ミシシッピー号の24歳の水兵、ロバート・ウィリアムズが、落ちて亡くなりました。ペリーは、彼を葬る場所と、アメリカ人のための墓地を求めます。幕府が差し出したのは、横浜村の増徳院の境内の一角でした。ペリーの求めた「海の見える地」という条件にもかなっていたといいます。これが、山手の外国人墓地の始まりです(横浜外国人墓地)。

開港ののち、日本で亡くなる外国人が増えると、墓地は丘の上へと広げられていきました。1870(明治3)年からは、各国の領事団がつくった委員会が管理を引き継ぎ、いまは公益財団法人横浜外国人墓地が守っています。広さは約18,500平方メートル。震災で多くが焼けた埋葬の記録をたどり直し、いまでは5,000人を超える人がここに眠っていることがわかっています(同)。

日本で最初の鉄道の建設に力を尽くしたモレル。ポンチ絵で日本の洋画に道を開いたワーグマン。山手の丘で日本で初めてのビール醸造所を開いたコープランド。震災のあと、外国人の地主を一人ずつ説得して回り、山下町の区画整理を成し遂げたマーシャル・マーチン(『中区史』)。名を残した人の隣には、故郷に帰ることのなかった、名も伝わらない人たちも眠っています。財団は、葬られたあとに縁の絶えた外国人も多い、と書いています。

戦争のあいだ、墓地は監視のもとに置かれ、手入れもままならずに荒れていきました。家族を亡くした人が、柵の外から葬りを見送るしかなかったこともあったと、墓地の管理にあたった人は語り残しています(『中区史』)。

墓地は国や市の管理ではなく、財団が、訪れる人たちの募金に支えられて守っています。維持と管理の費用の9割近くは、公開の日に集まる募金でまかなわれているといいます(横浜外国人墓地)。

  • 募金公開:墓地の中は、ふだんは墓参の方のほかは公開していません。2月〜7月と9月〜12月の毎週土・日・祝日(雨の日を除く)12:00〜16:00に、維持管理のための募金(500円程度)にご協力いただいた方が、順路に沿って中を歩くことができます。10分ほどで一巡できます。公開の日は公式サイトの予定表でお確かめください。
  • 横浜外国人墓地資料館:9:00〜17:00、入館無料(募金公開のときを除く)。月曜・火曜休館。
  • アクセス:元町・中華街駅6番出口から、アメリカ山公園を通って徒歩約3分。市営バス「港の見える丘公園」から徒歩1分。

港の見える丘Harbor View Park

港の見える丘公園港が見える丘フランス山イングリッシュローズの庭横浜ベイブリッジ

港の見える丘公園のある場所は、開港のころ、丘の上にイギリス軍、丘の下にフランス軍が駐屯していたところです(横浜市)。

戦後、山手の丘の多くは米軍に接収されました。接収された家々をつなぐ道までもが接収され、日本人は通ることができなかった、と区の歴史は書いています(『中区史』)。

接収が解かれたあと、地元の願いを受けて土地が整えられ、1962(昭和37)年、公園が開かれます。開園の日には、平野愛子さんの歌う「港が見える丘」のメロディーが流れていたといいます(横浜市)。その後、フランス領事館の跡地「フランス山」、英国総領事の公邸だったイギリス館、大佛次郎記念館、神奈川近代文学館が、公園に加わっていきました。

区の歴史は、この流れをこう振り返っています。幕末に外国の兵が駐屯して以来、戦前も戦中も、眺めのよい土地でありながら市民には近寄りがたい場所だった丘が、ようやく市民の楽しみの場となった。新しい山手の誕生だった、と(『中区史』)。

展望台からは、港と横浜ベイブリッジが見渡せます。イギリス館の前の「イングリッシュローズの庭」と、沈床花壇を生かした「香りの庭」などに、約330種、約1,950株のバラが植えられています(横浜市)。

  • 港の見える丘公園:元町・中華街駅6番出口から徒歩5分。JR石川町駅から徒歩20分。公園は24時間開いていますが、フランス山は夜間閉門があります(10月〜11月は7:00〜18:00など、季節で変わります)。
  • 山手イタリア山庭園:かつてイタリア領事館が置かれたことから「イタリア山」と呼ばれ、水と花を幾何学的に配したイタリア風の庭が広がります。外交官の家とブラフ18番館があります。

『あぶない刑事』のロケ地として、横浜市観光情報サイトは、山手のベーリック・ホールや港の見える丘公園を挙げています。

丘のビールBeer

1870(明治3)年、アメリカ国籍のノルウェー人、ウイリアム・コープランドが、山手の丘に、日本で初めてのビール醸造所「スプリングバレー・ブルワリー」を開きました。のちにこの醸造所を買い取ったジャパン・ブルワリー社が、1888年に「キリンビール」を売り出します(横浜市観光情報)。横浜が「日本のビール文化発祥の地」といわれるのは、このためです。コープランドは、いま、同じ丘の外国人墓地に眠っています。

横浜で生まれた味の話は、横浜の食の物語でご紹介しています。

山手の四季Four Seasons

西洋館は、季節ごとに装いを変えます。6月の「花と器のハーモニー」では、フラワーアーティストや華道家たちが、館内とテーブルを花と器で飾ります。10月の中ごろからは館内がハロウィンの飾りに包まれ、10月の最後の日曜日には、西洋館や山手公園を巡るスタンプラリーなどが開かれます(横浜山手西洋館)。

秋には、横浜市イギリス館で「秋の山手ローズウィーク」のローズコンサートが開かれます(2026年は11月15日)。港の見える丘公園の園内には、ソメイヨシノも植えられています。

冬 ― 世界のクリスマスChristmas

毎年12月1日から25日まで、西洋館はそれぞれテーマの国を決め、その国のクリスマスの飾りや講座、コンサートで、その国の歴史と文化を伝えます(横浜山手西洋館)。かつて海の向こうから来た人たちが暮らした家で、遠い国の冬の祝い方に出会う、ひと月です。

横浜の行事は、横浜の一年でご紹介しています。

Our View

私たちの見方 丘の上の暮らしを支えた手

山手は、横浜のなかでも、成功した人たちの丘として語られることの多い場所です。広い庭、港を見下ろす窓、遠い国の家具。

けれど、区の歴史に残る言葉を読むと、丘の暮らしは、多くの人の手で支えられていたことがわかります。台所に立ったコック、子守りをしながら通りを歩いたアマさん、庭を手入れした職人、煙突を掃除した職人、外国人の客と英語で話した花屋のおばあさん。震災の日に命を落とした人のなかにも、その人たちがいました。

西洋館を設計した建築家の名は残っています。そこで働いた人たちの名は、ほとんど残っていません。白い壁と、磨かれた床と、手入れの行き届いた庭は、その人たちの仕事の跡でもあるのだと思います。丘の上と、丘の下。どちらの暮らしもあって、横浜という街ができてきました。

※この枠は、Yokohama Open実行委員会の考えです。働いていた人たちについての記述は『中区史』(1985年)の座談・手記によります。

Our Suggestion

港の見える丘から、イタリア山まで。丘の尾根を、ゆっくりと。

元町・中華街駅から坂の上に出て、まず港の見える丘公園へ。展望台で港を眺め、バラの庭を抜けて、イギリス館と山手111番館をのぞいてください。

そこから山手本通りを西へ。外国人墓地の前では、少し歩みをゆるめて。公開の日なら、募金をして中を歩き、海の見える場所に眠る人たちの名前を、ひとつずつ読んでみてください。公開の日でなければ、柵の外から、静かに。教会の前を通るときも、ここが祈りの場所であることを、心に留めておいてください。

山手234番館、エリスマン邸、ベーリック・ホールと、震災のあとに建てられた家を順にたずね、最後はイタリア山庭園の外交官の家とブラフ18番館へ。庭から街を見下ろしたら、坂を下りて石川町駅へ。灯りのともりはじめた元町や中華街で、夕食にするのもよいと思います。

12月なら、世界のクリスマスの飾りを、一館ずつ。

※歩き方は実行委員会からのご提案です。山手は、いまも人が暮らす住宅地です。坂道や住まいの前では、声を落として歩いてください。墓地や教会では、お参りや礼拝の方の写真を撮らないようお願いします。西洋館の休館日は館によって違います(第2・第4水曜日)。

撞くPlay

山手には、ガイドに載せているビリヤード場はありません。坂を下り、元町・中華街駅や石川町駅から関内・伊勢佐木町へ。夜は、ビリヤード場の集まる街で。

暮らすLive

公式パートナー 住まいエージェント「ヴィンテージマンション特集」

西洋館と外国人墓地の並ぶ山手町には、1969年から1971年にかけて建てられたマンションがいくつも、いまも丘の暮らしを支えています。旅で歩いた街に、暮らすという選択も。公式パートナーの住まいエージェントが、この街のヴィンテージマンションを紹介しています。

スチュアートプラザ ハイツ山手 スターレッドプラザ メゾン山手 山手ハイム クレスト山手 山手ホームズ ペルシェール山手 クラッシィハウス山手 ヴィンテージマンション特集

泊まるStay

山手は、元町・中華街や山下町から坂をのぼってすぐの場所です。横浜市観光協会の公式サイトでは、エリアを絞って宿を探せます。

となりのエリアNearby

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出典(確認日:2026年10月6日)

所要時間・開館時間・公開日などは変わることがあります。お出かけの前に、各公式サイトでお確かめください。