横浜の食の物語

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Yokohama Food Stories

港が開いた日から、この街の台所には、海の向こうの味が届きつづけてきました。
それを日本の舌に合わせた人がいて、焼け跡で鍋を火にかけた人がいて、遠い故郷の味をいまも守る人がいます。
一皿の向こうにいる、名前の残らなかった人たちのことを思いながら。横浜の食の物語を、たどります。

港が開いて、食卓が変わったSince 1859

1859(安政6)年、横浜は国際貿易の港として開かれました。東京にいちばん近いこの港は、日本が外国の文化を受け入れる最前線になった、と農林水産省は書いています。

居留地には、海の向こうから来た人たちが暮らしはじめます。彼らは、ふだんの食事を手放しはしませんでした。牛の肉を食べ、パンを焼き、ビールを飲み、見たことのない野菜を畑に求める。その暮らしのすぐ隣で、横浜の人たちは、新しい味に出会い、ときに戸惑い、やがて自分たちのものにしていきました。

横浜市の観光情報は、この街を「”はじめてグルメ”の宝庫」と呼んでいます。海の向こうから入ってきたものだけでなく、この地で生まれたものも数多くある、と。

文明開化の味Meiji Era

牛鍋 発祥横浜 アイスクリーム 発祥ビール 発祥の地食パン 発祥 元町横濱開港菜バンブー カクテル

牛鍋ぎゅうなべ

開港した横浜では、国内でもいち早く、肉を食べる文化が広まりました。

1862(文久2)年、居留地の外国人が食べていた牛肉の料理にヒントを得て、横浜の居酒屋「伊勢熊」の主人が、初めての牛鍋屋を開いたといいます。妻に強く反対され、店を仕切って、半分を居酒屋、半分を牛鍋屋にしての出発でした。食べ慣れない牛肉を、日本人の好む味に仕立てたことで評判を呼び、店はやがて牛鍋の専門店になりました。

すき焼きは、肉を焼いてから煮ます。牛鍋は、はじめから具を、味噌や醤油のたれで煮ます。この「横浜生まれの牛鍋」は大いに流行し、まさに文明開化を代表する味になった、と農林水産省は紹介しています。明治元(1868)年に創業し、当時の味を守り続ける「太田なわのれん」。そして「じゃのめや」「荒井屋」。長い歴史をもつ老舗が、いまも横浜で牛鍋ののれんを守っています(農林水産省)。

西洋料理の店The First Restaurants

『中区史』によれば、1869(明治2)年8月には関外の末広町に、西洋料理の店が開かれていました。2年後には馬車道通りなどにも、当時の市民には珍しい西洋料理の店が、次々に生まれます。

アイスクリームBashamichi, 1869

同じ1869年の6月、町田房造が馬車道(いまの常盤町5丁目)に氷水の店を開き、アイスクリームを売り出しました。日本人によるアイスクリーム販売の第一号として知られる店です。

はじめは、ときおり外国人が立ち寄るほかは、日本人は店の前に立って眺めるばかり。商売はうまくいきませんでした。客がようやくついたのは、翌年、伊勢山皇大神宮の大祭のときだったといいます(『中区史』)。いま誰もが手にする冷たい一さじにも、売れない夏を越えた人がいたのです。

馬車道の歴史は、馬車道・日本大通りのページでご紹介しています。

ビールYamate, 1870

1870(明治3)年、アメリカ国籍のノルウェー人、ウイリアム・コープランドが、山手の丘に、日本で初めてのビール醸造所「スプリングバレー・ブルワリー」を開きました。

のちにジャパン・ブルワリー社がこの醸造所を買い取り、1888年、ドイツ風のラガービール「キリンビール」を売り出します。横浜が「日本のビール文化発祥の地」といわれるのは、このためです(横浜市観光情報)。1907年、その事業を継いで麒麟麦酒株式会社が生まれました。山手の工場は1923年の関東大震災で倒れ、1926年、横浜の新しい工場、いまのキリンビール横浜工場が完成しています(キリンホールディングス)。

コープランドは、山手の外国人墓地に眠っています。横浜市はいま、キリンビールとともに、「ビール産業発祥地」としてクラフトビールで街の魅力を伝える取り組みを進めています。

食パンMotomachi, 1888

居留地に暮らす人たちの食卓に、パンは欠かせないものでした。1888(明治21)年、山手の丘の下、元町に一軒のパン屋が生まれます。「食パン発祥の店」とも言われる、ウチキパンです(横浜市観光情報)。

それから130年あまり。元町の通りで、この街の朝の食卓を支えつづけています。元町のことは、中華街・元町・山下公園のページでご紹介しています。

カクテル「バンブー」1889

1889(明治22)年、居留地の「グランドホテル」で、支配人のルイス・エッピンガーが、日本で初めてのオリジナルのカクテル「バンブー」を考えたと伝えられます(横浜市観光情報)。そのホテルは、1923年の関東大震災で、またたく間に崩れ落ちました(『中区史』)。建物はなくなっても、一杯のカクテルの名は残りました。

西洋野菜「横濱開港菜」Western Vegetables

居留地の食卓には、西洋の野菜が欠かせませんでした。いま私たちが当たり前に食べている西洋系のニンジンも、江戸の終わり、開港のときに横浜と長崎に持ち込まれたのが最初だと、横浜市は書いています。

横浜市は開港150周年を記念して、開港をきっかけに横浜から各地へ栽培が広がっていった14種類の西洋野菜を、「横濱開港菜」と名付けました。日本中の食卓に並ぶ野菜のいくつかは、横浜の畑から旅立っていったのです。

南京町から中華街へChinatown

横浜中華街 歴史南京町サンマーメン 発祥シウマイ崎陽軒

開港とともに、居留地の一角に中国の人たちが暮らしはじめました。『中区史』によれば、はじめは朝と夕は飯店、昼は輸入の仕事という具合に、兼業の店が多かったようです。やがて食料品や織物の輸入商が生まれ、洋服や家具の店が独り立ちしていくにつれて、飯店もひとつの商いとして立つようになりました。区の歴史は、これを「今日の料理店街の始め」と書いています。

かつて「下町」と呼ばれたこの一帯は、中国の街そのものでした。表通りにも裏通りにも中華料理の店が並び、日本人も多く立ち寄ります。裏通りには、洋服の仕立屋、籐の職人、床屋、刺繍の店。区の歴史は、この街が横浜の名所であり、「市民のおなかを満たす」街だったと記しています。

1923年の関東大震災で、街の建物はことごとく倒れました。区の歴史は、この街に暮らしていたおよそ5,000人の中国の人たちのうち、およそ2,000人が亡くなったと記しています。1945年5月29日の空襲で、街は再び焦土になりました。

それでも、戦後の山下町の復興は、この街の一角から始まります。そこには食べるものがあったからです。1945年11月の新聞は、焼け跡のバラックに果物や揚げ物が並び、バラックの食堂で天どんやカレーどんが一杯20円で飛ぶように売れていく様子を伝えています。区の歴史は、そのころの山下町を、市民の食欲をそそり、満たす町だったと書いています。焼け跡の野毛と、同じでした。

1955年2月、戦後復興の願いを込めて、街の入口に牌楼門(いまの善隣門)が建ちます。それまで「南京町」と呼ばれていた街は、この門に掲げられた名から「中華街」と呼ばれるようになりました。いま、約500メートル四方に約630の店があり、そのうち中国料理の店は約200を数えます(横浜中華街発展会、2022年)。

サンマーメン生馬麺

もやしや白菜、豚肉などを炒め、スープを加えてとろみをつけ、醤油味のラーメンにのせる。横浜で生まれ、神奈川の人たちに長く親しまれてきた麺です。

その始まりには、いくつかの話があります。農林水産省は、戦前の中華街では肉そばがよく食べられていたが値が張ったので、まかないとして野菜を入れた麺が作られるようになった、と紹介しています。横浜市の観光情報は、中区の老舗の中国料理店の二代目が考えたといわれる、と書いています。

名前の由来や漢字にも諸説があります。一説には「生馬麺」と書き、新鮮でしゃきしゃきした具を上にのせた麺、という意味だといいます。どの話が本当なのか、私たちには決められません。けれど、どの話にも、厨房の片隅で、安く、温かく、腹にたまる一杯を工夫した料理人の姿があります。

シウマイKiyoken, 1928

1908(明治41)年、初代の横浜駅、いまの桜木町駅で、崎陽軒が商いを始めました。ヒントになったのは、南京町で突き出しとして出されていたシューマイだったといいます。干した帆立の貝柱を合わせ、冷めてもおいしい「シウマイ」が駅で売り出されたのは、1928(昭和3)年のことです(農林水産省、崎陽軒)。

1950年には横浜駅のホームに「シウマイ娘」が立ち、シウマイは横浜の土産として全国に知られていきます。農林水産省は、横浜市をシューマイの消費額が日本一の都市だと紹介しています。中華街の小さな一皿が、駅のホームを通って、この街の味になりました。

崎陽軒の歩みは、横浜駅周辺のページでもご紹介しています。

ホテルの厨房からHotel New Grand

ナポリタン 発祥ドリア 発祥プリン・ア・ラ・モード 発祥ホテルニューグランド

関東大震災から4年後の1927(昭和2)年、山下公園の前に、ホテルニューグランドが開業しました。

初代総料理長のサリー・ワイルは、あるとき、滞在していた銀行家から「体調が良くないので、何かのど越しの良いものを」と頼まれます。バターライスに海老のクリーム煮をのせ、グラタンのソースとチーズをかけて、オーブンで焼く。その場で考えたこの一皿が、ドリアの始まりだとホテルは伝えています。

1945年8月30日、連合国軍の最高司令官マッカーサーがこのホテルに着きました。『中区史』に引かれたホテルの記録によれば、その日の昼食は、スケソウダラと、ニンジン、タマネギ、馬鈴薯、そして冷凍の鯨をステーキ風に焼いたものでした。食べるものの乏しい年の、精いっぱいの一皿だったのだと思います。

ホテルはそのあと、接収の時代を迎えます。二代目総料理長の入江茂忠は、米兵がゆでたスパゲッティに塩と胡椒とトマトケチャップを和えて食べているのを知り、それに手を加えて、スパゲッティ ナポリタンを生み出しました。将校の夫人たちを喜ばせようと、当時のパティシエは、プリンにアイスクリームと果物を添えたプリン・ア・ラ・モードを考えました(ホテルニューグランド)。

占領という時代のさなかに、料理人たちは、目の前の客を喜ばせる皿を考えつづけていました。銀行家のために生まれたドリアも、やがて全国に広がった、とホテルは伝えています。

山下公園とホテルのことは、山下町のページで。戦後の野毛に生まれた洋食の店は、野毛・都橋商店街のページでご紹介しています。

焼け跡の煙After the War

野毛 くじら横丁闇市 横浜もつ焼き 野毛

戦争が終わると、横浜の中心は米軍に接収されました。野毛の桜川のほとりには屋台が並び、人々はそこを「クジラ横丁」と呼びます。もうもうと立ちこめる鯨の肉を焼く煙が、食べるものに困っていた人たちの食欲をそそった、と区の歴史は書いています。

港には、荷を揚げ降ろす人手がいくらでも必要でした。「横浜に行けば食べていける」。そんな噂を頼りに、全国から人が集まりました。その人たちが働き、暮らした街のことは、寿町のページに書いています。安く、腹にたまり、明日また働く力になるもの。港町の食卓は、そういう人たちの胃袋とともにありました。

クジラ横丁と、いまの野毛の酒場のことは、野毛・都橋商店街のページで。

一杯が、系譜になるIekei Ramen

家系ラーメン 発祥吉村家横浜 ラーメン

1974(昭和49)年、長距離トラックの運転手だった人が、九州の豚骨スープと東京の醤油ラーメンを合わせることを思いつき、新杉田で「吉村家」を開きました。濃い豚骨醤油のスープに、太いまっすぐな麺。のれん分けした店にも屋号に「家」の付く店が多かったことから、この一杯は「家系」と呼ばれるようになります(神奈川県観光協会)。

師から弟子へ、弟子からまたその弟子へ。横浜で生まれた一杯は、家系図のように枝分かれしながら、全国へ、海の向こうへと広がっていきました。

家系ラーメンの系譜と、総本山のことは、横浜駅周辺のページで。

いま、この街で暮らす人たちの食卓Living Cultures

福富町 コリアタウン横浜 韓国料理いちょう団地横浜 ベトナム料理多文化共生

港が開いてから160年あまり。横浜の食の物語は、いまも書き足されつづけています。

伊勢佐木町のとなりの福富町は、「横浜福富町コリアタウン」とも呼ばれる街です。1988年ごろ、ソウルオリンピックのころから、韓国の方が営む店が増えていきました。通りには韓国料理の店や食材の店が点在し、近年は中国料理の店や食材店も増えて、アジアの街としての顔も見せはじめています。

街の中心から離れた泉区には、大和市にかけて広がる約3,600戸の「いちょう団地」があります。かつて近くに、インドシナから来た人たちを受け入れる大和定住促進センターがあったことなどから、多くの外国の人たちが移り住み、いまは住民の3割が外国の人だと、神奈川県は紹介しています。ベトナムや中国にルーツを持つ人が多く暮らし、団地のなかには、故郷の味を出す店や、アジアの食材を並べる店もあります。

Our View

私たちの見方 故郷の味を、この街で

開港のころの居留地の人たちが、海の向こうの食事を手放さなかったように、いまこの街で暮らす人たちも、故郷の味を大切に守っています。

南京町の飯店も、はじめは誰かの故郷の味でした。それがいつか、横浜の人たちのおなかを満たし、横浜の名物と呼ばれるようになりました。福富町の食卓も、団地の小さな店の一皿も、きっと同じ道の途中にあるのだと思います。どの味も、この街の物語の大切な一頁です。私たちは、そのことを誇りに思います。

※この枠は、Yokohama Open実行委員会の考えです。福富町の記述は、関内・伊勢佐木町のページと同じ資料(はまれぽ.com 2014年、横浜で暮らそう 2022年)、いちょう団地は神奈川県の紹介によります。

実行委員会からのご提案Our Suggestions

横浜 食べ歩き中華街 食べ歩き横浜 グルメ 歴史野毛 はしご酒

Our Suggestion

中華街から野毛へ。一日で、食の150年を歩く。

昼は中華街から。牌楼をくぐり、肉まんや点心を少しずつ。満腹にはせず、山下公園へ抜けて、ホテルニューグランドの前で、ナポリタンとドリアが生まれた厨房のことを思い出してください。

そこから日本大通りを通って、馬車道へ。アイスクリームの店が開いた通りで、冷たいものをひとつ。ガス灯の下を関内へ歩き、吉田橋を渡れば、伊勢佐木町と福富町です。

夕暮れには大岡川を渡って、野毛へ。一軒目の一杯は、港の丘で生まれたビールの物語を思いながら。最後は、温かい麺で一日を結んでください。

※歩き方は実行委員会からのご提案です。距離があるので、疲れたら、みなとみらい線や地下鉄も使ってください。各エリアの詳しいことは、下の「エリアのページ」からどうぞ。

Our Suggestion

試合の前は軽く。試合のあとは、ゆっくり。

大会で横浜に来られる選手の方へ。試合の前は、お腹いっぱいにしないのがおすすめです。シウマイを数個、温かいお茶とともに。あるいは、中華街で小さな点心をいくつか。腹八分のほうが、構えが静かに決まる、と感じる人は多いのではないでしょうか。

勝っても、負けても、試合が終わったら、ゆっくり食べてください。仲間と牛鍋を囲む。家系の一杯で、張りつめていたものをほどく。野毛で、その日の一球を肴に一杯。横浜の食卓は、どんな一日の終わりも受け止めてくれます。

海の向こうから来られた方には、日本の飲み方の作法もひとつ。最後に温かい麺やご飯で夜を結ぶことを、日本では「〆(しめ)」と呼びます。

※実行委員会からの楽しみ方のご提案です。体調や食事の決まりは、ご自身に合わせてください。居酒屋では、席に着くと小鉢が出て、その代金(お通し・席料)がかかる店があります。小さな店には現金だけの店もあります。

撞くPlay

中華街からも野毛からも歩いてすぐの関内・伊勢佐木町に、ビリヤード場が集まっています。腹ごなしに、一ゲームいかがですか。関内・伊勢佐木町のページへ →

食べる・飲むEat & Drink

大会協賛 横浜ビール 本店レストラン(UMAYA/YOKOHAMA BEER STAND)

横浜市内で最も長い歴史を持つ地ビール会社の本店。2階がレストラン「UMAYA」、1階が醸造所を併設したビアスタンドです。「アルト」は World Beer Cup 2024 のジャーマンスタイル・アルトビア部門で銀賞を受けています。中区住吉町、JR桜木町駅・みなとみらい線馬車道駅から徒歩5分。はしご酒の一軒目にも。

公式サイト

街に長く親しまれてきたお店は、各エリアのページでご紹介しています(掲載料はいただいていません)。

エリアのページAreas

出典(確認日:2026年10月5日)

数字は出典の時点のものです。由来には諸説あるものがあり、ここでは出典に書かれている話として紹介しています。営業時間や料金は変わることがあります。お出かけの前に、各公式サイトでお確かめください。