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プロローグ
お姉さんが、お兄さんを呼んだ。
名字じゃない。
俺の知らない、下の名前だった。
……下の名前、だと。
俺——玉野想(30歳・童貞・万年B級・現在手球)は、手前の台の上で、それを聞いていた。
お姉さんは今日、深緑のニットに、グレーのワイドパンツ。
台の横の椅子に座って、撞かない。
お兄さんは、いつもの白いシャツに、紺のベスト。
キューを持って、立っている。
相手は、常連のおじさんだった。
「一回、やってみたかったんだよ」と、さっき言っていた。
ジャンパーを着たまま、チョークを回している。
ナインボール。
おじさんは3ラック、お兄さんは5ラック先取。
1対4。
お兄さんは、あと1ラック。
第一章:よっしゃ、曲げるか
おじさんの番。
残りは、7番、8番、9番。
7番の手前に、9番が立っていた。
まっすぐは、通らない。
「よっしゃ、曲げるか」
おじさんは、キューの尻を少し持ち上げた。
狙いは、9番の左。
俺の右を、ふわっと撞く。
シュッ。
俺は、9番には触れずに、その左を抜けた。
そこから、ゆっくり右へ曲がる。
コン。
7番が、ポケットへ落ちた。
「よっしゃ」
……今、俺、曲がったよな。
キューを立てて右を撞かれると、俺はまず、少し左へ飛び出す。
トビだ。
同時に、俺の回る軸が、斜めに傾く。
ラシャに触れている一点が、横へこすれる。
その摩擦が、俺を右へ押し戻していく。
曲がるのは、滑っているあいだだけ。
転がりきったら、そこで終わる。
……なんで俺は、こんなことまで知っているんだ。
転生すると妙に物理に詳しくなるらしい。
困ったもんだ。
おじさんは、そのまま9番まで取りきった。
2対4。
キューを立ててひねると、手球は、トビと反対へ曲がって戻ってくる。
第二章:がんばって
次のラック。
お兄さんの番で、6番の手前に、9番がいた。
さっきと、そっくりの配置だ。
お姉さんが、また呼んだ。
下の名前で。
「がんばって」
お兄さんが、キューの尻を持ち上げる。
狙いは、9番の左。
俺の右を、撞いた。
さっきのおじさんより、強く。
シュッ。
俺は、9番の左を抜けた。
抜けたまま、ほとんどまっすぐ行く。
曲がりはじめたときには、もう6番の横を過ぎていた。
コトン。
俺は、どの球にも触れずに、クッションに跳ね返って、止まった。
ファウル。
曲げる力は、強く撞いても、弱く撞いても、それほど変わらない。
でも速いと、その力が効ききるまえに、遠くまで進んでしまう。
ゆっくり撞かれるほど、曲がりは早く来る。
速く撞かれるほど、曲がりは遅れてやってくる。
おじさんが、俺を手で拾って、好きなところに置いた。
フリーボール。
「よっしゃ」
そこから、9番まで。
3対4。
おじさんの勝ちだった。
お兄さんが外すのを、はじめて見た。
ちょっとだけ、うれしかった。
……いや、うれしくない。
外したのは、俺の体だ。
B級だったころ、カーブは、強く撞くほど大きく曲がると思っていた。
曲がらなくて、もっと強く撞いた。
曲がる前に、届いてしまっていたのに。
「8年間、何を見ていたんだ俺は……」
強く撞くほど、カーブは遅れてやってくる。
お姉さんの呼び方は、ゆっくり、曲がりきっていた。
エピローグ
照明が落ちていく。
一人、また一人と客が帰っていく。
おじさんは、「よっしゃ」と言って帰った。
お兄さんは、まだキューをしまわない。
さっきの配置を、自分で並べ直す。
6番の手前に、9番。
シュッ。
曲がりきらない。
並べ直す。
少しだけ、やわらかく。
シュッ。
撞き直すたびに、俺の曲がるところが、少しずつ手前へ来た。
お姉さんは、椅子に座ったまま、それを見ていた。
名前は、呼ばなかった。
何度目かで、6番が沈んだ。
お兄さんは、ようやくキューをケースにしまった。
ジーッ。
……嫌いになれないじゃないか。
二人が、帰っていく。
扉が閉まる前に、もう一度だけ、あの名前が聞こえた。
テーブルの上に残されたのは、また俺だけだ。
「遅れて、か……」
暗くなったビリヤード場で、俺はただ、止まっていた。
——俺の物語は、続くのか。続かないのか。
それは、皆さんの反応次第……かもしれない。
次回予告(もしあれば):扉が開く。お兄さんが、一人で入ってくる。お姉さんは、来ない。……一人、だと。 手球・玉野想の転生生活は続く……かもしれない。
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