The Yokohama That Was
汽笛を鳴らして港へ向かった列車。丘の上の競馬場。潮干狩りの浜。
「ちんちん」と鐘を鳴らして走った電車、夢の国と呼ばれた遊園地。
横浜には、今はもうない場所がたくさんあります。
けれど、その多くは跡をたどることができます。線路の跡は遊歩道に、ドックは広場に、ホテルは図書館になりました。
なくなった場所を、時代を追ってご案内します。
街に積み重なった時間Layers of Time
横浜は、新しいものの街だと言われます。鉄道も、ガス灯も、洋式の競馬も、ここから始まりました。いまも、港の景色は数年ごとに変わっていきます。
けれど、新しいものが建つ場所には、いつも前の時代がありました。埋め立てられた海には漁をする人たちがいて、取り壊された映画館には、毎週そこへ通った人たちがいました。街がきれいになったかどうかだけでは、その時間は測れません。
このページでは、消えた場所を惜しむだけでなく、それぞれが街に何を残したのかを書きます。跡地は、たいてい歩いて訪ねられます。足もとの石や、残された名前の向こうに、かつての横浜を感じてみてください。
明治 港と鉄道の時代Meiji
初代の横浜駅1872年〜 いまの桜木町駅
1872(明治5)年、日本で最初の鉄道が新橋と横浜のあいだに開業しました。そのときの横浜駅が、いまのJR桜木町駅です。
横浜駅はそのあと、北へ二度移っています。1915(大正4)年、高島町の交差点のあたりに、塔のある赤レンガの二代目の駅。その駅舎は1923年の関東大震災で、外壁を残して焼けてしまいました。わずか8年の駅でした。そして1928(昭和3)年、いまの場所に三代目の横浜駅ができます。
- いま:桜木町駅(JR・市営地下鉄)の駅ビル「CIAL桜木町 ANNEX」1階に「旧横濱鉄道歴史展示」があり、開業当時の110形蒸気機関車と、初代横浜駅のジオラマが見られます。
- 二代目の跡:西区高島2丁目に、二代目横浜駅の基礎のレンガが残され、公開されています。
根岸競馬場1866年〜1943年
1866(慶応2)年、根岸の丘に、日本で初めての洋式の競馬場がつくられました。開港とともに伝わった、海の向こうのスポーツ文化を象徴する場所です。
関東大震災で崩れた観覧席のかわりに、1929(昭和4)年、建築家J.H.モーガンの設計で、鉄骨鉄筋コンクリートの「一等馬見所」が建ちました。各地の競馬場建築のお手本になった建物です。
戦争が激しくなるなか、1942年の秋を最後にレースは途絶え、競馬場は1943年に閉じられました。戦後は米軍に接収され、住宅地やゴルフ場として使われます。その土地の一部が返り、1977(昭和52)年に根岸森林公園が開かれました。なだらかな芝生の広がりは、かつての競馬場の地形を生かしたものです。
- いま:一等馬見所は、現存する日本最古の競馬場の建物です。2025年に横浜市認定歴史的建造物になりました。建物の敷地には入れませんが、公園から、その姿を眺められます。
- 内部を見る:2026年8月に、市とNPOが、内部を360°で見られるウェブサイトを開きました(旧根岸競馬場一等馬見所)。
- 訪ね方:根岸駅・桜木町駅・横浜駅から市営バスで「旭台」下車。
港へ向かう列車明治の終わり〜 臨港線・横浜港駅
明治の終わり、新港ふ頭と当時の横浜駅(いまの桜木町駅)を結ぶ線路が敷かれました。東京駅からは、船に乗り継ぐ人たちのための汽船連絡列車が、ふ頭の横浜港駅まで乗り入れました。海外へ旅立つ人、海外から着いた人が通った、横浜の国際的な玄関口です。
戦後の1965年には、横浜港駅から山下ふ頭まで貨物の線路が延びましたが、それも1986年に役目を終えました。
- 汽車道:線路の一部、約500mが1997年に遊歩道になりました。明治の鉄橋(港一号・二号橋梁など)が、そのまま渡れます。
- 旧横浜港駅プラットホーム:赤レンガパークに、プラットホームの屋根と構造が復元されています。ベンチで、ひと休みできます。
- 山下臨港線プロムナード:貨物線の跡が、横浜税関の近くから山下公園まで、約500mの高架の遊歩道になっています。
Our Suggestion
線路の跡を、ひと続きに歩く。
桜木町駅から汽車道へ。海の上の鉄橋を渡り、赤レンガのプラットホームで列車を待っていた人たちを思い、高架のプロムナードを山下公園まで。足もとはずっと、かつての線路の上です。ゆっくり歩いて、1時間ほどの道のりです。
※実行委員会からのご提案です。
伊勢佐木町の映画館街明治の終わり〜
1911(明治44)年12月、ドイツ人のウェルデルマンが、外国映画の専門館「オデヲン座」を開きました。国立映画アーカイブは、日本で初めての洋画の封切館と紹介しています。舞台の下では楽士が音楽を奏で、人々は海の向こうの喜劇に笑いました。
大正の伊勢佐木町は、市内でいちばんの娯楽の街でした。オデヲン座は震災から立ち上がり、1936(昭和11)年に建て直されます。戦後は米軍に接収され、「オクタゴン劇場」と名を変えて、1954年まで進駐軍のための映画館でした。
昭和の終わりまで、伊勢佐木町から若葉町・末広町にかけて、映画館がひとつながりの興行街をつくっていました。その灯は一館ずつ消えていきます。若葉町の横浜日劇は2005年に閉館し、2018年には伊勢佐木町の横浜ニューテアトルも幕を下ろしました。
- いま:若葉町のシネマ・ジャック&ベティ、長者町の横浜シネマリンが、この街で映画を上映し続けています。
- 横浜日劇:1953年から2005年まで若葉町3丁目にあり、映画『私立探偵 濱マイク』の舞台になった映画館です。黄金町・日ノ出町のページでご紹介しています。
大正・昭和のはじめ 東洋一の遊園地と、大リーグの来た球場Taisho – Early Showa
花月園1914年〜1946年 鶴見
1914(大正3)年、新橋の料亭「花月」の主人・平岡広高が、鶴見の東福寺の境内を借りて、子どものための遊園地「花月園」を開きました。妻とヨーロッパを旅し、パリ郊外で子どもを主役にした遊園地を見たことがきっかけだったといいます。
動物園、噴水、大滝から始まり、大山すべり、豆汽車、観覧車、少女歌劇、アイススケート場。大人のためのダンスホールもあり、谷崎潤一郎の『痴人の愛』にも登場します。外国からの客も多く、「東洋一の大遊園地」と呼ばれました。1916(大正5)年には、日本で初めての全国絵画展覧会がここで開かれ、のちに海外の子どもたちの絵も並ぶようになりました。
やがて客足は新しい遊園地へと移り、経営は京浜急行の手に渡ります。戦後に一度は再開されましたが、1946(昭和21)年11月の子どもの絵画展を最後に、遊園地は幕を閉じました。その後は競輪場として、2010年まで「花月園」の名を残しました。
- いま:跡地は2021年11月に「鶴見花月園公園」として開かれ、芝生の原っぱや遊具の広場があります。
- 訪ね方:京急「花月総持寺駅」から徒歩約5分、JR鶴見駅から徒歩約15分。駅の名にも「花月」が残っています。
横浜公園の球場1929年〜1978年
関東大震災からの復興の目玉として、1929(昭和4)年、横浜公園に球場が完成しました。1934(昭和9)年11月、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックら米国大リーグのオールスターチームがこの球場で全日本チームと戦い、横浜の人たちはその打球を目にしました。
戦後、球場は接収されて「ゲーリック球場」と呼ばれます。夜間の照明が設けられ、1948(昭和23)年8月17日には、日本のプロ野球で初めてのナイトゲームが開かれました。返還のあとは「平和球場」として親しまれ、半世紀ちかく使われたのち、1978(昭和53)年に横浜スタジアムに生まれ変わりました。
- いま:横浜スタジアム(関内駅すぐ)。公園の外周の腰石や噴水に、むかしの公園の面影が残ります。
戦後 焼け跡と接収の街でPostwar
1945年5月29日の横浜大空襲で、街は大きな被害を受けました。戦争が終わると、関内や伊勢佐木町、本牧の広い土地が米軍に接収されます。市内の接収地は、いちばん多いときで1,200ヘクタールにのぼりました。人々は、残された土地で暮らしを立て直していきます。
野毛の闇市1945年〜1960年代
中心部を接収された横浜で、日本人が集まれた数少ない町が野毛でした。1945年11月、野毛の通りに「横浜マーケット」が開き、鯨の肉を焼く煙のなかで、復員した人や職を失った人たちが、食べるものと仕事を求めて集まりました。
桜川沿いの横丁は1953年に共同の店舗へ移るか撤去され、最後まで残った露店は1964年、大岡川沿いに建った野毛都橋商店街ビルへ移りました。
- いま:野毛都橋商店街ビル(2016年、戦後の建物として初めて横浜市の歴史的建造物に登録)。野毛の「のんべえの街」の気風と、大道芸の投げ銭に、闇市の記憶が残ります。
本牧の米軍住宅戦後〜1982年
戦後まもなく、本牧の広い土地が接収され、米軍の家族が暮らす住宅地になりました。芝生の庭のある家、学校、教会、映画館。フェンスの向こうには、日本の中のアメリカがありました。
土地を持っていた人たちは、長く返還を求め続けました。1982(昭和57)年に返還されたとき、その多くはすでに別の場所で暮らしていたといいます。跡地は区画整理を経て、1988年に新しい本牧の街として開かれました。
- いま:ゆったりとした区画と緑の住宅地、本牧山頂公園。ジャズやロックが流れた街の記憶は、本牧・三溪園のページでご紹介しています。
昭和の後半 海と川と電車とLate Showa
本牧・根岸・磯子の海〜1960年代
本牧から根岸、磯子にかけての海は、魚や貝、海藻に恵まれた豊かな海でした。漁師が網を引き、根岸湾では海苔の養殖が大きく営まれ、夏には海水浴や潮干狩りの人でにぎわいました。1929(昭和4)年には、磯子に市営の海水浴場も開かれています。
昭和30年代、工業地帯をつくるための埋め立てが始まります。1956年、根岸湾の漁師たちは埋め立てに反対する決議を市に出し、大会を開きました。補償の協定が結ばれたのは1959年。屏風ヶ浦の漁協は1963年に埋め立ての記念碑を建て、翌1964年に解散式を開きました。海とともに暮らしてきた人たちの、ひとつの時代の終わりでした。
本牧の海岸も1963年から埋め立てられ、浜は姿を消しました。
- 本牧市民プール:失われた海水浴場のかわりに、1969年につくられました。2023年に新しくなり、波打ち際をイメージした「渚プール」があります。
- 八聖殿郷土資料館(本牧):本牧・根岸の海の写真や、漁と海苔づくりの道具が展示されています(入館無料)。
- 海辺を走る線路:根岸線は、埋め立てと同じ時代、1964年に桜木町から磯子まで開通しました。車窓の工場の並ぶ景色は、かつての海の上です。
吉田川と、橋の名前〜1973年 いまの大通り公園
関内の南、いまの大通り公園のところには、かつて川が流れていました。江戸時代に埋め立てられた吉田新田の中を通る運河で、明治には根岸湾から町の中心まで、船で荷を運べるようになりました。川には、蓬莱橋、長島橋、横浜橋、阪東橋と、いくつもの橋が架かっていました。
昭和30年代、船の荷運びはすたれ、車の時代になります。川は1973年までに埋め立てられ、地下には市営地下鉄が通り、地上には1978年、長さ約1.2kmの大通り公園が開かれました。
- 名前が残る:阪東橋駅や横浜橋商店街のように、橋の名前は、いまも駅や町の呼び名に残っています。
- 橋の詩:区役所などが保存していた橋の名板を、陶板のレリーフに組み込んだ記念碑「橋の詩」が、1981年に伊勢佐木長者町駅の連絡通路の壁に設けられました。
横浜市電1904年〜1972年
1904(明治37)年、神奈川から大江橋(いまの青木橋から桜木町)まで、横浜で初めての路面電車が走りました。1921年に市営となり、「横浜市電」が生まれます。いまの横浜市交通局の始まりです。
人々は親しみをこめて「ちんちん電車」と呼びました。車掌がひもを引いて鳴らす合図の鐘、運転手が足で踏む鐘の音から、といわれます。震災で傷つき、1945年5月29日の横浜大空襲では45両の電車が焼けました。それでも市電は走り続けます。
やがて車が増え、1964年に根岸線が開通すると、乗る人は減っていきました。1972(昭和47)年3月31日、桜木町から滝頭・葦名橋への最後の路線が運行を終え、約70年の歴史に幕が下ろされました。
- 横浜市電保存館(磯子区滝頭):車両工場の跡に1973年に開かれ、当時の電車がそのままの姿で並びます。停留場の敷石も当時のものです。休館は水曜・木曜(祝日と学校の休みの期間は開館)。
- 訪ね方:JR根岸駅から市営バス約7分「市電保存館前」下車すぐ。
夢の国と呼ばれた遊園地1964年〜2002年 横浜ドリームランド
1964(昭和39)年8月、戸塚の俣野に「横浜ドリームランド」が開きました。当時、国内でも屈指の娯楽施設で、ホテル、プール、ボウリング場がそろい、衛兵のパレードや遊覧ヘリコプターも人々を楽しませました。戸塚区の広報は、「まるで夢の国のよう」だったと書いています。
1966年5月には、遊園地へ向かうモノレールも開業しました。けれど橋げたにひびが見つかり、わずか1年4か月で運行を休止します。1983年に新しい大きな遊園地が千葉に開くと、客足は遠のき、2002(平成14)年2月、ドリームランドは閉園しました。
- いま:跡地の東側は横浜薬科大学で、遊園地のホテル「ホテルエンパイア」の建物が、そのまま大学の図書館として使われています。大学の構内ですので、外から静かに眺めてください。
- 俣野公園:跡地の西側は、もとの緑を生かした公園になり、野球場では毎年、夏の高校野球の神奈川大会が開かれています。
- 訪ね方:JR戸塚駅西口からバスで「俣野公園・横浜薬大前」下車。近くの団地「ドリームハイツ」の名に、夢の国の記憶が残ります。
- 昭和の遊園地:野毛山にも、1951年から1964年まで遊園地がありました。遊園地の部分が閉じたあとも、動物園はいまも野毛山に残っています。
造船所のドック1891年〜1982年 三菱重工業横浜造船所
いまのみなとみらいの海辺には、明治から造船所がありました。1891(明治24)年に横浜船渠として船の修理を始め、のちに三菱重工業の横浜造船所となります。山下公園に浮かぶ氷川丸も、1930年にここで生まれた船です。
第一号ドックは、1899年から1982年までの83年間に、数千隻の船を修理しました。1982年、造船所はみなとみらいの街づくりに協力して本牧へ移り、海辺の土地は新しい街に生まれ変わります。造船所はなくなったのではなく、いまも本牧で、ものづくりを続けています。
- 第二号ドック:1896年にできた、現存する最古の民間の石造りのドックです(国の重要文化財)。ランドマークタワーの足もとの「ドックヤードガーデン」として残り、石にはいまもフジツボがついています。
- 第一号ドック:帆船日本丸が浮かんでいます(国の重要文化財)。桜木町駅から徒歩5分。
文体1962年〜2020年 横浜文化体育館
1962(昭和37)年、開港100年祭の記念事業として、関内の南に横浜文化体育館が開きました。2年後の東京オリンピックでは、バレーボールなどの競技会場になります。
それから58年。相撲、プロレス、ボクシング。国際大会、コンサート、そして横浜の若者たちの成人式。人々は「文体(ぶんたい)」と呼んで、この体育館に通いました。2011年の大みそかには、横浜駅の近くの大橋ボクシングジムが主催するボクシングの世界タイトルマッチも開かれています。
2020年9月、体育館は惜しまれながら閉じられました。
- いま:同じ場所に、2024年4月、約5,000席のアリーナ「横浜BUNTAI」が開きました。名前に「文体」が受け継がれ、こけら落としは、旧館に縁のある横浜出身のゆずの公演でした。いまもボクシングの世界戦などが開かれています。
- 訪ね方:市営地下鉄 伊勢佐木長者町駅から徒歩4分、JR関内駅南口から徒歩6分。すぐ隣が寿町です。
平成・令和 新しい街の下にHeisei – Reiwa
横浜博覧会1989年3月25日〜10月1日
1989(平成元)年、市制100周年と開港130周年を記念して、まだ空き地の多かったみなとみらい21地区で横浜博覧会が開かれました。半年あまりの会期のあと、博覧会の跡に、少しずつ新しい街が立ち上がっていきます。
- いま:横浜美術館は、博覧会のパビリオンとしてお披露目されたのち、1989年11月に開館しました。海辺の臨港パークも、博覧会の「シーサイドパーク」として整えられた場所です。
東横線の桜木町駅・高島町駅〜2004年
高島町駅は1928年、桜木町駅は1932年に開業し、東京から来た東横線の電車は、70年あまり桜木町を終点にしていました。2004(平成16)年1月30日の終電を最後に、横浜から桜木町までの線路は役目を終えます。翌々日、東横線はみなとみらい線と結ばれ、元町・中華街まで走るようになりました。
- いま:桜木町駅の西口から紅葉坂のほうへ、高架の跡が遊歩道として使われています(2019年から)。高島町へ向かって、高架を支えたコンクリートの柱が並んでいます。
伊勢佐木町の百貨店1864年〜2008年 横浜松坂屋
1864(元治元)年、開港まもない横浜で、野澤屋呉服店が創業しました。明治の終わりに伊勢佐木町へ移り、やがて横浜松坂屋となって、長くこの通りの顔であり続けました。創業から140年あまり。2008(平成20)年10月26日、百貨店はその歴史を閉じます。
- いま:跡地の「カトレヤプラザ伊勢佐木」は、イセザキモール側の外観に、旧本館のアール・デコの意匠を再現しています。館内にも、当時のフロアの表示などの装飾が移されています。
関内の市庁舎1959年〜2020年
1959(昭和34)年、開港100周年の記念事業として、建築家・村野藤吾の設計で市庁舎が建ちました。60年あまりのあいだ、横浜の市政はここで動いてきました。2020(令和2)年、市庁舎は本町6丁目の新しい庁舎へ移ります。
議会の棟は姿を消しましたが、行政の棟は残され、2025年、戦後の建物として初めて横浜市認定歴史的建造物になりました。いまはホテルとして、新しい時間を刻んでいます。
- いま:「BASEGATE横浜関内」(関内駅すぐ)。旧行政棟はホテル「OMO7横浜」に。旧市会棟にあったタイルのレリーフ「海・波・船」の一部も、移されて残っています。
そして、いまToday
2026(令和8)年6月30日、中区・南区・磯子区にまたがる米軍の根岸住宅地区が返還されました。戦後に始まった接収は、80年あまりたったいまも、少しずつ終わり続けています。
横浜の街は、これからも変わっていきます。新しい建物の足もとには、今はもうない場所の時間が、静かに積み重なっていくのでしょう。私たちはその両方を、この街の宝物として伝えていきたいと思います。
撞くPlay
昔の横浜を歩いたあとに、キューを握るのもまた一興です。関内・伊勢佐木町に、ビリヤード場が集まっています。関内・伊勢佐木町のページへ →
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出典(確認日:2026年10月6日)
- JR東日本「横浜の鉄道スポット巡り1日モデルコース」
- 横浜市都市整備局「二代目横浜駅基礎等遺構」、横浜市西区「西区てくてくスケッチ」第二十回・第三回・第五十三回
- 横浜市記者発表「旧根岸競馬場一等馬見所」を横浜市認定歴史的建造物に認定(2025年1月22日)、横浜市「根岸森林公園」、横浜市都市整備局「旧根岸競馬場一等馬見所」
- 横浜市「水際線まちづくりコンセプトプラン」、横浜市「山下公園通り周辺地区まちづくりビジョン」、横浜市港湾局「汽車道」、神奈川県観光協会「汽車道」
- 横浜市中区『中区史』(1985年)、横浜市中区『中区歴史年表』、横浜市中区「中区の年表」
- 国立映画アーカイブ「NFAJコレクション 2025 春 横浜と映画」、横浜市中央図書館「この活気を見よ!横浜の象徴・伊勢佐木町」、ヨコハマ経済新聞(2007年3月8日、横浜日劇)、同(2018年6月1日、横浜ニューテアトル)
- 横浜市鶴見区「平岡広高が開いた 児童遊園地『花月園』」、同「鶴見花月園公園」、横浜市都市整備局「鶴見一丁目地区(花月園競輪場跡地)」
- 文化遺産オンライン「横浜公園」、日本野球機構(2019年9月27日)、横浜市中区「中区の町名とその歩み(や行)」
- 野毛地区街づくり会「野毛の歴史」、横浜市都市デザイン室『横濱新聞』第33号
- 横浜市基地対策課「市内の米軍施設の状況」、横浜市「都市化の進展と基地問題」、内閣府「横浜・新本牧再開発地区」
- 『広報よこはま』2023年7月号(本牧市民プール)、横浜市磯子区「磯子区歴史年表」(昭和2年〜20年)・(昭和21年〜45年)、横浜市八聖殿郷土資料館「横浜の海の変遷」
- 横浜市道路局「はしのはなし VOL.2 吉田川・新吉田川に架けられた橋」、横浜市記者発表「大通り公園の全面リニューアル」(2024年)
- 横浜市交通局「あゆみ」、横浜市磯子区「横浜市民の足 〜横浜市電〜」、横浜市電保存館 公式
- 横浜市戸塚区「戸塚区のあゆみ(年表)」、同 歴史紹介の写真資料、『広報よこはま』戸塚区版、横浜薬科大学「アクセス」、横浜市「野毛山動物園の沿革」
- 三菱重工業「横浜製作所」、帆船日本丸・横浜みなと博物館「旧横浜船渠第1号ドック」、文化遺産オンライン「旧横浜船渠株式会社第二号船渠」、横浜市西区「西区てくてくスケッチ」第二十三回
- 『広報よこはま』2024年5月号(横浜BUNTAI)、文化庁「横浜文化体育館」、横浜文化体育館 平成23年度事業報告書、横浜市記者発表「横浜BUNTAIの開館に伴う記念イベント」、横浜BUNTAI 公式
- 国立国会図書館サーチ『横浜博覧会公式記録』、横浜美術館 記者発表資料(2014年)、横浜市西区「西区てくてくスケッチ」第三十回
- 東急電鉄「東横線の歴史」、横浜市都市整備局「東横線廃線跡地の活用」
- J.フロント リテイリング「株式会社横浜松坂屋の百貨店事業終了について」(2008年)、パルコ プレスリリース(2023年、カトレヤプラザ伊勢佐木)
- 横浜市「市庁舎の経緯」、横浜市記者発表(2025年8月5日、旧市庁舎行政棟)、三井不動産 ニュースリリース(2026年3月19日、BASEGATE横浜関内)
年や出来事は、横浜市・各区の資料や事業者の公式の情報をもとにしています。数字は出典の時点のものです。資料によって年が異なるものは、幅を持たせて書きました。跡地を訪ねるときは、施設の公開の時間・休館日や決まりを、各公式サイトでお確かめください。
